みくさのみたからと宗教(2015)

 

 

 飯田茂実が ついに身ずから語ります!

 

 みくしのみたらし団子の美味しい食べ方!

 

 みくさのみたからと宗教の

 

 あいだに潜む衝撃の新事実!

 

          

 

 『みくさのみたからと宗教』

 

 なんとなく全10章にまとめてみますね。

 

                   

 

 飯田しみじみは日ごろから

 

 あんまりバカばっかりやっていますので、

 

 ここからは、ちょっと

 

 頭の横のスイッチ入れて氣合い入れます。

 

           

 

                   

 

  第一章 カミングアウト!

 

  其之弐 みたからの特徴

 

  第三部 常識を越えて

 

  四次元目 あやしい世のなか

 

  第五巻 身をもって

 

  第六感 実用的な生活術

 

  第七号 こいつは教祖になりうるか?

 

  小口大八さんと みたからの教典を探せ!

 

  第九番 みたらし団子に戒律はあるか?

 

  十連発 早いものであれから10

 

  あとガキのまえガキ/あとガキのらくガキ

 

                …………………………………………………………………………………………….

 

    

 

    カミングアウト!

 

 

 

 2011311日を経るまで

 

「みくさのみたから=たまちのすべ」を

 

 カミング・アウトできなかったのには訳があります。

 

  今にしてみれば、とってもせこい、半径ひとりぼっちな理由です。

 

 自分が傷つきたくなかったからです。

 

               

 

 みくさのみたからを世のなかで伝え始めたら どうなるか。

 

 どれだけ多くの方に喜んで頂けるか、みたいなことだけでなく、

 

 ちっぽけなわし自身がどれだけ傷つくか、ほぼ見通しはついていた!

 

            

 

 みたからを伝えよう、広めよう、

 

 世のなかに取り戻そうと切に願いつつ、

 

 わしにはちっぽけなこだわりがあった。

 

              

 

 わしのもっている能力はほとんどすべて、

 

 みくさのみたからのおかげです。

 

 わしにとって、わしのいのちと みくさのみたからは、

 

 ほぼ一体化していて、切りはなすことができない。

 

 わしのイノチとひとつながりっていうか、

 

 生きていくうえで何よりも、かけがえないことだったんです。

 

 そういうの、むやみにテキトーに、さらけだして、

 

 いいかげんにバラしちまうわけにゃぁ いかねえだろ!

 

 大事なチンコ、子供たちのまえで

 

 無防備にさらけだして蹴られたりしたら

 

(実際に経験済み)痛えじゃねえか!!!

 

    

 

 チンコの話をしたいわけではない。

 

 わしはダンス音楽の出前さきで、

 

 ちっちゃい子供たちと踊っていたとき、

 

 ふんどしのうえからガキどもに股間けられまくって、

 

 キンタマ内出血して2倍に腫れあがったことあったわ。

 

 そのあと韓国で乗ったバスが事故って、

 

 腫れてたキンタマさらに強打して、

 

 まっとうに歩けないくらいになって、

 

 韓国のフベ(後輩)たちから日本語で

 

「キンタマン!」てからかわれていたよなあー。

 

 あれも痛かったなあ。

 

 あの頃から、なんか、世のなかに広く、

 

 みたから取り戻す覚悟が生まれてきたのって偶然か?

 

               

 

 ともかくわしも人並みにデリケートな思春期を経たうえで、

 

 術の中身は10年ほど、術の名前は20年ほど、

 

 人にはほとんど明かさずに、封印しておりました。

 

            

 

 たまちのすべは、中身があまりに昔ながらで、天然自然です。

 

 かたや、この100年あまり、

 

 日本という國が選ぶことになった近代教育の世界は、

 

 天然自然のイノチから、大きく脱臼しております。

 

            

 

 みくさのみたから=皆元のすべ=たまちのすべは、

 

 イノチの立場でイノチが心地よくなっていく術です。

 

 近代教育とは、あまりにかけ離れております。

 

            

 

 お互いに生き心地よく活かし合って暮らす立場、

 

 イノチの立場から、

 

 この世のなかを眺めてみると、

 

 あらゆるものごとがひっくり返って見えてくる。

 

     

 

 イノチにとって、すでに役に立たなくなった仕組みが、

 

 この世のなかに、かさばってきて、あっちょんぶりけ!

 

           

 

 たなそえる・まことのる・ちのみちとおす。

 

 わき水みたいに、お日さまみたいに、

 

 あたりまえで、ありきたりなことです。

 

 ところが。学校社会で頭のなかに教育された、

 

 漢語の概念や、イギリス語の記号からすると、

 

 そもそもこの、大和言葉の呼名が、

 

 あやしく響いてしまったようです。

 

           

 

 現代社会の、あれこれの仕組のうち、

 

 ほとんどはもう、イノチにとって役に立たなくなっている。

 

 むしろイノチを苦しめている。

 

 そうした過去の遺物みたいな仕組から見たら、

 

 昔ながらの宝といえど、始めのうちは、

 

 あらかた、バカらしく見えるかもしれない。

 

           

 

 日本の神代の人たちの暮しのなかで、

 

 ネイティブ・アメリカンや、

 

 カナダ・エスキモーの暮らしのなかで

 

 息づいてきた技や術。踊り。物語。唄。神語り。

 

 沖縄や、伊那や、アイヌの人たちの

 

 日ごとの暮らしのなかでの知恵。

 

 そうしたことを、そのまんまオモテに出したら

 

 今どき、どれだけバカに見えるか知れません。

 

            

 

 どれほどバカに見えてもいい。

 

 3.11のあとで東北へ行って

 

 地元で被災した若いアーティストたちと

 

 日ごとに大泣きしながら舞台を作っているうちに、

 

 覚悟が生まれてきて、覚悟が決まりました。

 

 わしが個人的に傷つくかどうか云々なんて、すべて吹っ飛んだ。

 

 このかけがえない宝が、ひとまず傍目には、

 

 どんなにバカに見えても、わしはもう、かまわない。

 おばあちゃんまで、バカにされたらごめんなさい。

 

          

 

 諏訪ん衆が、ひとたび覚悟を決めて、

 

 イノチの立場でものごとを始めたら、

 

 どれだけのことが出来るか。

 

 わしは色んな実例を目にしてきました。

 

              

 

 わしの父親は、わしと同じくらいの歳に覚悟を決めて、

 

 諏訪湖を昔ながらのきれいな湖に戻そうと動き始めた。

 

 昔の不良つながりから海外つながりまですべて用いた。

 

 そうして最後には、本当に、びっくりするくらい、

 

 諏訪ん衆のたましい、諏訪湖をきれいにしてから他界しました。

 

             

 

 これはもうお役目みたいなことです。

 

 わしも仕方なく覚悟したところがあります。

 

        

 

「こんなこと、びっくり初めて」な近代人へどう説明したらいいか、

 

 細かな色いろはクリアーできていないまま、なりふり構わず、

 

 わしは みくさのみたからを伝え始めることにしました。

 

 今の世の万人に向けて。次の世の万人に向けて。

 

          

 

 だってこんな素晴らしい宝が

 

 封印されてしまったら余りにもったいない。

 

 世界文化遺産No.1な、日本の宝.

 

 求めている方たちは明らかに、世界中にいるのだから。

 

            

 

 日ごとに みたからをひらいているとどうなるか、

 

 この効き目を知ったら、身につけたくなる方たちが

 

 この世界の人口の少なくとも9割くらいいることでしょう。

 

 うっかり何もしないで放置していたら世界的な損失です。

 

           

 

 勘違いされても仕方ない。

 

 やむをえず先駆者・開拓者の立場。

 

 世界中で、色んな時代に、色んな人たちが、同じような立場で、

 

 同じような心持ちを味わっていたんだろうなー。

 

 かつて学んだ文化史とか芸術史の根本的な転換期が、

 

 まさに我が事として、身にしみるようになった。

 

                

 

 身ずからにとって、もっともあたりまえで素晴らしい宝が、

 

 万人の宝だということを、身ずから誰よりも知っている。

 

 世界各地で色んな人たちとも、すでにたしかめてきている。

 

 これからは母国でチカラを尽くしてみる。

 

           

 

 こうした宝を、広く世に広めるというのは、めくるめく体験です。

 

 このうえなくどこまでも素晴らしい体験です。

 

 そうして当たり前のことながら、ぼろぼろになります。

 

 おかげさまで回復力もどんどん高まって参ります。

 

            

 

 皆元を知ってしまった。心得てしまった。身につけてしまった。

 

 しっかりした自信にあふれて、世に広くこれを伝えていく。

 

 こうした快美悦楽は、身ずからやってみた人しか味わえない。

 

 せっかくだから味わってみようという方はぜひとも。

 

    

 

 「伝えるチカラが追いついていない」なんて言い訳しつつ、

 

 保身のためにカミングアウトできなかった、かつての飯田しじみ。

 

 国際的に活動しているマルチ・アーティスなんて肩書きは、

 

 おもちゃみたいな、あぶくみたいな、ちゃちなものでした。

 

 F1種子みたいに、ばりばり1世代かぎりのアート活動をしていた頃、

 

 わしは今よりもっと、へなちょこだった。

 

 イイ氣になって、ちっぽけな自分にこだわって、

 

 グローバル・アート界で浮かれておりました。

 

              

 

 ちのみちとおして、まことのって、アート活動なんてしながら、

 

 おばあちゃんから教わった、たなそえの大元居をしていなかった。

 

 あるときふっと大元居を想いだすまで、

 

 ムネがだいぶこわばって、飢えかわいていた。

 

 だから誉められたり認められたり

 

 拍手をされたりすると嬉しかったんでしょう。

 

 名病み苦しみ痛んでいる方たちと、

 

 イノチひとつに繋がっているわけではなかった。

 

 

 

 日ごとにイノチを張って伝えるようになってようやく、

 

 みくさのみたからが、どれほどのタカラなのか、

 

 日ごと新たに知ることが出来るようになりました。

 

 たなそえの大元居がどうして世界中の文化に残っているのか、

 

 その理由を仲間たちと身ずからたしかめることもできました。

 

          

 

 イノチを張って始めたら、チカラはあとからついてくる。

 

 イノチを張るというのはどういうことかといったら、

 

 どんなに傷つけられても、ちっとばかり痛くても構わない、

 

 覚悟を決めるということです。

 

          

 

 みたからをひらくと、痛みも苦しみも、

 

 30秒くらいで消えるようになってきました。

 

 30秒というのはだいぶ早いほうです。

 

 長く経験を積んできたからでしょう。

 

 始めたばかりの方は、痛み・苦しみ・悩みを消すのに

 

 3分から15分くらいかかったりします。

 

              

 

 この宝箱、ひとり占めしていると、箱がひらかなくなってくる。

 

              …………………………………………………………………………………………….

 

          

 

   其の弐 みたからの特徴

 

          

 

 みたからは誰でもたやすく身につけられます。

 

 身につけて日ごとにひらいてなんぼです。

 

 まずは身につけたらいいのです。

 

 思想とか芸道とちがって、

 

 深いとか浅いとかいったこともなく、

 

 師匠や生徒がいるわけでもない。

 

            

 

 一生ぶん身につけるのに、

 

 5時間から9時間ほど集いへ来たら

 

 こと足りるように工夫してあります。

 

           

 

 たちまち・たやすく・心地よい。

 

 これは万人向けのすべとして当たり前です。

 

              

 

 専門的な何かではなくて、万人向けのすべ。

 

 趣味的な何かではなくて、万人向けのすべ。

 

 万人向けのすべなので、集いの料金も安い。

 

            

 

 お金がなくても大丈夫、

 

 きれいな石一個とか、きれいな花一輪とか、

 

 こころある物納でも集いに参加してもらえます。

 

          

 

 世界各地で月ごとにひらかれるようになった

 

「たまちの湯=おたのしみ おさらい会」へ出向いたら、

 

 誰でも無料で身につけることができます。

 

             

 

 みたからを伝える人はみんな

 

 生計を得られる仕事をちゃんともっています。

 

 みんなどこかで これも天職の一部と思っているのでしょう、

 

 これまで世界中でひらかれてきた集いは9割がた赤字です。

 

 わしは本を売ったりして釣り合いをとっています。

 

             

 

 みたからを身につけたその日から、

 

 ややこしい氣づまりが抜けていきます。

 

 ムネの飢え乾きが充たされていきます。

 

 頭のなかの思い込みも、半径が広がっていきます。

 

                   

 

 みたからを用いれば、

 

 もっと喜ばしく、もっと楽しく、

 

 もっと面白おかしくなっていきます。

 

            

 

 ひと言でいえば、長い目でみてお互いに

 

 生き心地よく活かしあいながら暮らせるようになる。

 

 たったこれだけのことかと、なるほどびっくりする。

 

 みたからを用いたら、あっけないほどです。

 

            

 

 試してみたら誰でもすぐにわかる。

 

 覚せい剤とか、売春とか、

 

 そうしたやけくそなヤクザ関係に頼らなくてもよい。

 

          

 

 みたからを身につけて、

 

 日ごとにみたからをひらいている方みんな、

 

 こうしたことは、なるほど身ずから知っておられます。

 

 そうして身ずから楽しんでおられる。

 

 みたからをひらいていたら、心地よくて楽しい。

 

 身につける人が増えたら、

 

 イノチをいじめて苦しめるようなひどいことが、

 

 だいぶこの世のなかから減ることでしょう。

 

             

 

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 〈ここで少しだけ、とほほな話〉

 

     

 

 身につけて、それぞれのやり方で、

 

 みたからをひらき続けてきた方だけが、

 

 みたからの効き目を知っています。

 

                

 

 そのほかの方たちは、身ずから知らない。

 

 この素晴らしい宝の中身をまったく知らない。

 

              

 

 音楽家たちの顔を写真で知っていても、

 

 音楽を聴いて感動したことがなかったら どうにもならない。

 

 身ずから楽しむかどうかです。

 

 色の名前をたくさん知っていたって、

 

 身ずからモノクロの世界しか見えていなかったらどうしようもない。

 

                

 

 身ずから知らないことについて、

 

 知ったかぶりや憶測でわかったつもりになって

 

 見くだしたり、けなしたりするのは恥ずかしいことでしょう。

 

           

 

 どんなにややこしい氣づまりを抱えていても大丈夫、

 

 どんなにムネが飢え乾いていても大丈夫、

 

 頭のなかの思い込み半径がどんなに狭くても大丈夫、

 

 みたからを身ずから身につけて、

 

 日ごとにひらいてみれば成程びっくり

 

 大丈夫だと氣づいて頂けます。

 

        

 

 よごれて曇って ひび割れ ゆがんだ小さな鏡に、

 

 身ずからや世のなかを写しだして眺めていたのでは、困ります。

 

 わかったようなつもりになって、見下したり、けなしたりしている人は、

 

 身ずからと世のなかを くさらせて劣化させてしまいます。

 

            

 

 知らないことについては、身ずから知るまで尊んで黙っておく。

 

 みたからを広めていくなかで、わしも改めてこのことを学びました。

 

            

 

 勘のはたらく方は、文体の雰囲気から、

 

 この2年半ほど、わしが蔭でどんな想いをしてきたか、

 

 なんとなく空気よんでるかもしれません。

 

 世のなかには色んな立場の、色んな方たちがおります。

 

                  

 

 みたからをカミングアウトして伝え始めたらどうなるか?

 

 わしが初めに氣にしていたのは、ちっぽけなことばかりでした。

 

 実際に、氣にしていたようなことは起こりました。

 

          

 

 3.11まえにアートの世界で

 

 つながりのあった人たちのうち

 

 友達らしき人びとは、ひそひそしました。

 

「飯田くんダンスやめちゃって変なことしてる」とか

 

「飯田が宗教みたいなことはじめた」とか……

 

            

 

 あんたがホンモノのお祭りを知らんだけなんじゃ!

 

 これこそが、アートの皆元、アートの目指すところで……

 

 とか、もう、ジャンルの壁のなかで説明してる暇ないし……

 

           

 

 象のシッポに触っただけで、

 

 勘違いしたまま わかったつもりになっちゃって

 

 「象って細くてウネウネしてる」とか、

 

 ネットに落書きをする人たちも出てきました。

 

        

 

 象の鳴き声、象の足音、

 

 あんた聴いたことあるだかや?

 

 あとで恥かくあんたのことを、

 

 いちいち、かまってやるわけにはいかんだよ……

 

        

 

 自宅にサロンとかスタジオとか持って

 

 開業している専門家たちのなかには、

 

 みたからの効き目にびっくりしつつ、

 

 言いがかりつけて、こそこそする人たちもいました。

 

       

 

 癒されたがりの癒しマニアが

 

 何ぉいい人ぶった面して

 

 相互依存ゲームぉやってるだか!

 

 いのちの力、見損なうのもいいかげんにしろや!

 

 みたいに思わず怒鳴ってしまうこともありまして

 

 すみませんでした。ごめんなさい。

 

             

 

 凡人・飯田茂実をカリスマあつかいして、

 

 頼っちゃえ けなしちゃえ、

 

 こいつには複雑感情ぶつけやすいぞ ぶつけちゃえ

 

 みたいに甘えてくる人たちも多発しました。

 

           

 

 わしゃぁありふれたサンプルだわね!

 

 みたからひらいて20年もしたら

 

 誰でも出来るようなことしてるだけだわえ!

 

 わしみたいなモンでも、これくれえ、

 

 たちまちだってこと、示してるだけだでね!

 

            

 

 これはすごいっていうんで頭で昂奮して、

 

 さっそく、みたからを取り入れて、

 

 半分秘密のビジネスを始めた人たちもいます。

 

 まさか本当にやるとは思いませんでした、

 

 教祖を立てて宗教を始めちゃった人もいます。

 

           

 

 そんなことしたって長続きゃぁしねぇでね。

 

 あとんなって恥かくだけのこんでねえかや。

 

 取り返しつかなくなるめぇに引き返しとくこんだね。

 

             

 

 世のなかの光のなかには色んな色がきれいに広がっていて

 

 そうしてやっぱり、ヤミはいつでも単なるヤミでした。

 

                 

 

 みたからを伝え始めた頃は、だいぶ氣が弱かったわしも

 

 色とりどりに鍛えてもらってヴァージョンアップできました。

 

 回復もだいぶ速くなって、要らん氣張りも落ちました。

 

            

 

 渋みはもとより、酸いも苦いも、なれてしまえば、

 

 珍味ごちそうのうちですわ、おほほほ、とほほ。

 

            

 

                   

 

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     第3部 常識を越えて

 

      

 

 わしはEMについて色いろ知って、

 

 EMを使い始めたとき思いました。

 

「この万能力は、ほとんど、みくさのみたからレベルではないか?」

 

        

 

 そうなんです。

 

 イノチにとって、素早く、たやすく、心地よく、

 

 広く、長く、効きすぎるのです。

 

 これまでの常識では解決不可能と思えたことが、

 

 ムリだと思ってあきらめていたことが、

 

 すんなりすっきり解決してしまう。

 

           

 

 近代に作られた狭い常識の枠のなかには、

 

 どう観たってこんなこと収まりきれません。

 

           

 

 後にEMを広めるなかで比嘉照夫さんが、

 

 どれだけ利権がらみのパッシングを受けてきたか知りました。

 

 わしにだったら、そんなパッシング、

 

 とても耐えられんだろうと思ったものです。

 

 他人の悪意に触れたとたんに、フリーズしてしまうお年頃、

 

 まったくもって思春期のわしは、今よりもっと、へなちょこでした。

 

          

 

 悪意がないまま、というか、むしろ善意で

 

「そんなの宗教だろ」「そんなインチキゆるせない」などと一人、

 

 正義の味方ごっこをして昂奮している人もいました。

 

 そういうヒーローは、ちょっと迷惑でした。

 

           

 

「あいつは近頃、変な宗教を始めちゃったようで」なんて陰口している舞台周辺者の方がたも、正義感でやっているのなら、せめて学究的態度をもってして実態を調べたうえで、稀少な研究対象として、飯田しめじなり古代心身術なりを充分に分析して歴史と社会のなかに位置づけて頂きたい。誠実に内実を調べたうえでなお、飯田しめじの集いが舞台芸術よりもむしろ宗教に近いと断言する必要があるのなら、もうひとたび芸術史・宗教学・民俗学・文化人類学などを、ゼロからよくよく学び直して頂くほうが万人にとって有効であろう。「飯田しめじは元々、どこか南の島の酋長だった」という根拠のない偏見の動機となっているのが、研究主体みずからの欲求不満や、それに基づく複雑感情なのだとすれば、芸術や社会を複雑な手法で分析するまえにまず、自らの複雑な心理を注意深く観察しつつ分析したほうが、ある意味、人類の未来にとってさえ有効なのではないだろうか? これはあくまで推測であるが、そうであろうがなかろうが、たいした違いはないだろう、という立場からすれば何事も、あるとも言えるし、ないとも結論づけられる可能性が、依然として存在するのである。

 

      

 

 ……みたいに空回りしている方たちに

 

 迫って来られて、げんなりしちゃうこともありました。

 

          

 

 なんかちっちゃい頭のうえに、

 

 でっかり要らないタンコブ載せて、

 

 要らないタンコブ磨いている感じ。

 

     

 

 正義の味方・常識の味方になるのなら、

 

 まずは本当に巨大な悪が・本当に害ある非常識が、

 

 どの辺りにたむろしているか見通せるよう、

 

 見識と思い込みの範囲を、お互いに広げて参りましょう。

 

 というかまず、大きな怪獣が目のまえにいるのなら、

 

 現実ありのまま、そいつの出方をよく見ておきましょう。

 

             

 

 おいおい、ウルトラマン。

 

 おまえ足の裏、真っ赤だぞ。そりゃあ誰の血だぁ?

 

 善意のウルトラマンが、

 

 うっかりわしらのお家を踏みつぶして歩いては困ります。

 

      

 

 かつて100年まえの山里にもいろんな常識がありました。

 

      

 

「雷のチカラたくわえといて明かりをともす?」

 

「細い管んなか、チカラが通っていくたあ、どういうこんだ?」

 

「音を箱んなかたくわえといて、

 

 あとんなって聞きかえすたあどういうこんだ?

 

 おめぇさん頭おかしいだか?」

 

「空飛んでよその國ぃ行くだ、月ぃ行くだなんつう、

 

 バカげた話ぁ夢だけにしとけや」

 

           

 

 それぞれに頭のなかの常識がある。

 

 わかったつもりで思い込んでいることがある。

 

 思い込みのサイズも人それぞれ。

 

 常識と「わかったつもり」のサイズが小さく限られているほどに、

 

 人はちっぽけなプライドで名病むようです。

 

                 

 

 ちっぽけな自分の世界を守ろうとして、

 

 頭のなかでヤクザな抗争や、

 

 半径10人足らずの脳内戦争をおこしている人たちも、

 

 あっちこっちで、いたるところで、見かけました。

 

              

 

 わかったつもりになっているとプライドが高くなる。

 

 プライドが高くなるほどに、たくさんの恥をかく。

 

 恥ずかしいのを隠そうとしてますますプライドが……

 

 こうした人たちこそ、まっさきに、

 

 日ごと、みたからをひらいて頂きたいところです。

 

                     

 

 たちまち晴れやかな心地になって、頭がすっきりします。

 

 すっきりと晴れてしまえば、たちまちです。

 

                     

 

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  四次元目 あやしい世のなか

 

 

 

 みくさのみたからは、

 

 たやすく、たちまち、心地よく、

 

 あらゆる方に、よく効きます。

 

           

 

 どれくらいよく効くかというと例えば、

 

「宗教じゃないか?」と

 

 勘違いされるくらい効きます。

 

 

 

 たやすく、たちまち、心地よく、

 

 あらゆる方に、よく効く方法。

 

 痛み・苦しみ・名病みがびっくりするくらい素早く消えて、

 

 喜ばしく・楽しく・面白おかしくなってきます。

 

 七福神みんな揃っておでましです、みたいな話でしょう?

 

             

 

 近代の常識では、こんな素晴らしい方法はファンタジーの世界だけの話で、この現実の世には、ありえないことになっていたはずです。

 

 学校の小さな椅子のうえに固定されて長い月日を過ごしてきた方たちが、

 

 こんな話を聞いたらまず、

 

「うさんくさいぞ」

 

「そんなのあやしい」

 

 と考えるのが普通の常識でしょう。

 

               

 

 人工的でイノチをそこなう闇の薬物が、今この瞬間も、地方都市で・大都市で、大量に売りさばかれています。身近な方がそうしたヤクザ商売の犠牲になった方たちは、これまでにも数知れずいました。わしにとって、すぐにでもつぶしてやりたい敵はこういう「心地よいふりをした心地よいモドキ」です。お互いにとっても、長い目で見ても、こうした依存性の強い薬物は、心地よいどころか、気持ち悪い。続けるほどに当事者は、周りの方を巻き込みつつ、どんどん生き地獄になっていく。

 

     

 

 こういう闇カルチャーを知っている方が

 

「たちまち、たやすく、心地よく、

 

 あらゆる方に、よく効きます。

 

 痛み・苦しみ・名病みが消えて、

 

 喜ばしく楽しく面白おかしくなってきます。」

 

 なんて言葉を聞いたら

 

「シャブ配っとるんかい!?」と思うのが普通でしょう。

 

 人それぞれに、それぞれな、普通の感覚があるようです。

 

            

 

 同じことを耳にしても、

 

 整体術とか気功とかヨガを指導してきた方たちなんかは、

 

「おっ。原点を突いてきてるね。要チェックだね」

 

 なんて微笑ましく思ってくれるようです。

 

            

 

 誰がどう思うにしても実際に、

 

 みたからをひらくと、生き心地よい効き目があらわれてしまいます。

 

 そこから先はそれぞれに昔ながらを目安にして身ずから楽しんでいけます。

 

            

 

 日ごと、みたからをひらくにしても、

 

 宝箱の中身はそれぞれ、骨のかたちもそれぞれです。

 

 それぞれの命が求めていることに応じて、中身も変化しつづけます。

 

          

 

 みたからは実用的で具体的です。

 

 副作用やリバウンドもありません。

 

 根拠のないスピ系の尾ひれもついていません。 

 

 長い目でみてお互いに心地よく効きます。

 

 シャブよりも、兵器産業よりも、食品産業よりも、

 

 新興ビジネス宗教よりも、ずっとずっと心地よく効きます。

 

 

 

 日ごと みたからをひらくのには、

 

 道具も要らないし、お金もかからない。

 

 効くんだか何なのか趣味みたいな技術を身につけるより、

 

 ずっとずっと素早す、お安く、お手軽に身につけられます。

 

                

 

 このあたりのことは、わしだけでなく、

 

 みたからをひらいてきた方たちみんな、

 

 身をもって事実だと知っています。

 

       

 

 そうして聞く人によっては、やはりあやしく思うのでしょう。

 

 何かといえば、あやしいあやしいと思ってしまう方は、

 

 すこしでも早くそういう、あやしい世界観を卒業して、

 

 晴れやかにすっきりと世のなかを眺めて頂きたいものです。

 

             

 

 みたからの集いや合宿はよく「安すぎる」と言われます。

 

 お金のない方は、無料で身につけていきます。

 

「暇もてあましている小金もちの趣味人」

 

 なんかを狙った営利事業とはだいぶ違うようです。

 

             

 

「みたからの集いに払ったお金の何倍も、

 

 わたし、集いに行くための交通費で使ってる」なんて方もいました。

 

 そんなに幾度も集いへ来なくて大丈夫です。

 

 わしの話を聞いてばっかりで、みくさのみたからについて

 

 言葉でっかちになってしまっても仕方ないからです。

 

           

 

 みたからの集いは、セミナーやレクチャーの類ではないし、

 

 わしだって、面白おかしく夢を語っているわけではない。

 

 口からアブクを吹いたって、アブクはいずれ壊れて消えますよ。

 

       

 

  みくさのみたから=たまちのすべは

 

 日ごとに暮らしのなかで身についていくことです。

 

  ひと度ひらき方を憶えたら亡くなるまで楽しめます。

 

 まずは身につけて日ごとの暮しのなかで、ひらいて参りましょう。

 

         

 

 追っかけみたいになった常連さんにわしはお願いしてきました。

 

「あんまり集いへ通いつめたりしないでください。

 

 だってあなた集いでこっくりこっくり昼寝をしていたりするでしょう?」

 

           

 

 集いの場は気持ちがよくて感動があるので、

 

 ついつい身ずからみたからをひらかないまま、

 

 リピーターになってしまう方もいたようです。

 

            

 

 わしはイイ人ぶって人気者になりたいわけでもない。

 

 日ごとに みたからをひらいてもいない方たちから、

 

 追いかけられたり、すがりつかれたりするつもりはない。

 

 身ずからの生命のチカラをひらいてもいないまま、

 

 よりかかってこようとする大人たちや、

 

 ぶらさがってくる大人サイズの子たちは、振り捨てます。

 

         

 

 自分の夢はあきらめて我慢したまま、他人が吹いたアブクの夢をかなえてやろうとか、余計なお世話も要りません。

 

 それぞれに、夢をかなえる力をひらいて、

 

 それぞれに、身につけた力を合わせて愉しんでいけばいい。

 

                  

 

 だいぶ話があちこちしました。そう、インドの話でした。

 

 インドのエンターテイメントなんていうのはもう、ポップな宗教そのものですよね。インドやネパールの人たちに「わたしは宗教をとても大事にしています」なんてと言うと、目がキラランと光って「わたしもです」という答えが返ってきます。

 

 こうした国では、仏教徒であろうと、キリスト教徒であろうと、信仰心をもっていて神聖なことを感知できるというだけで、とりあえず仲間あつかいしてもらえます。

 

    

 

 片や日本で「わたしは宗教をとても大事にしています」なんて言うと、重大カミングアウトな雰囲気になってしまって、まわりの方はどん引きます。

 

 わしも日本で集いをするときは、島国な常識をいちおう心得たうえで話をすすめていきます。

 

 オーム事件のあとの日本、これでもう、当分、カミングアウトは見合わせるしかない…….というわけで、わしは寂しく辛い想いを胸にひめて暮らしてしていました。

 

「まことのる」「たなそえる」「みたからをひらく」、どうしてもこうした言葉をカミングアウトできないでいた理由、あの頃のことを知っている方はなんとなく おわかりになりますでしょう。

 

        

 

 ほぼ万能の、万人むけの、昔ながらの伝統術。

 

  ほとんどの人たちが、いったん忘れてしまっていたこと。

 

 例えばいま、草木がきられた土地には、高速道路や、スタジアムや、電波塔や、大きなマーケットが駐車場とともに広がっている。

 

 そんな世のなかで「わしって小さい頃は毎日、森のなかで原始人になって遊んでいました。今も日ごとに神代の御祖さんたちと対話しながら森のなかを歩き回っています」みたいなこと、カミングアウトしてしまったらどうなるか。

 

    

 

 みたからの元居となっているすべ、

 

「たなそえる」というすべを伝えようにもすでに

 

「たなこころ」っていう言葉が消えかけていました。

 

 ンムネも、たなこころも、失って久しい人たちにどうやって、

 

 ンムウすべ、たなそえるすべを伝えたらいいのか。

 

           

 

 かつては10年あまり、みたからを伝えるにあたって、あらゆる既成語をミックスして、グローバル時代に対応しようとしていた頃もあります。

 

 海外あちこちを旅しました。いろんな処で、悔しくて大泣きしながら、みたからの伝え方を試行錯誤していました。

 

          

 

 みたからの中身をまったく知らないままに

 

 あやしい!と思って写真を見てみれば

 

 なるほど、いや増していくあやしい感。

 

                 

 

 それにしても氣になる。

 

 いったいこれは何なんだ?

 

 本人たちは、傍目にどれだけ、あやしく見えるか、わかったうえでやっているのか? 人目は氣にならないのか? こんな顔で写真とられてOKって、どこか常識、麻痺しているのではないか? カルトやったらどうするん?

 

 見るからに常識はずれな このサムシングを、世のなかは放ったらかしておいていいのか? 世のなかでは、このみたからって、どんな反応を受けているんだ?

 

         

 

 わからなくて氣になることを、まずは手っ取り早くわかったつもりになるには、どうしたらいいかといえば。

 

 近頃は何事につけ、身ずから何もしないまま、実際には何も身につけないまま、インターネットで何かしら、わかったようなつもりになれます。

 

              

 

みくさのみたからのチラシ写真なんかを見て

 

「もしや宗教?」

 

と疑ってかかるくらいの知性は、社会人だったら必要かもしれません。

 

                

 

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    第5巻 身をもって

 

   

 

 身体感覚を取り戻すということで、21世紀の日本では、ヨガや、整体や、気巧や、古武術が、次つぎとブームとなりました。整体やヨガについてはすでに90年代の美容師バブルみたいに、講師が増えすぎてバブルが起こっています。

 

 

 

 そんな流れもあってか、この5年ほど、世界あちこちで、その道のマスターさんたちが、みくさのみたからを身につけて、大絶賛してくれています。

 

 ヨガのマスター、レイキのグランド・マスター、マクロビオテックの指導者、武術の師範、整体の指導者、各種治療法の先生、西洋病院の院長さん、気巧の先生たちなどなど。

 

 世界各国のみたからファンのなかには、いわゆる「生き神様」を含む宗教指導者さんたちもいたりします。

 

    

 

「舞踏」の創始に関わった方も、「整体」を創始した方のお弟子さんも、みくさのみたからを絶賛してくれています。

 

 子育てしているお母さんたちのあいだでは、安産のすべ、楽しく子育て出来るすべとして広がっている。

 

 自然農をしている方たちのあいだでは、野良仕事や立ち仕事が楽になって、腰痛も方こりもなくなるすべとして重宝してもらっている。

 

 レストランを運営している方、造り酒屋をしている方、大会社の人事担当者、病院の院長さん、看護婦さん、職人さん、大工さん、企業コーチの方、市会議員さん、高校や大学の先生、お坊さん、神主さん、運転手さん、武術家、スポーツ選手、実にいろんな方が、みたからのおかげで、仕事が楽になったと言います。

 

          

 

 難病や慢性病や精神病が、びっくりするくらい速く完治した方たちも多く、誰よりもびっくりしているのは、そうした方たちを担当していたお医者さんたちです。

 

 潜在能力開発法としても最強のすべですので、音楽家・俳優・ダンサー・美術作家ほか、芸能人のあいだにも広がっています。身につけたアーティストたちがどんどん力を伸ばしていくので、周りの方たちも氣になるようです。

 

  

 

 こうしたことをいくら並べたとしても、響かない人には響かなかった。

 

 暗く重たい想い込みをもっている人は「そうやってハクずけしようとしたって、だまされないぞ」なんて言ったりする。

 

 暗い固定観念の檻のなかに、身ずからを閉じ込めている方たちもいる。

 

 広いひろい青空のひろがる海辺の景色が見えない方たちもいる。

 

 こうした方たちの心に何が見えているのかということは、

 

 いつも広びろとした景色を見晴るかしている人たちも、

 

 こころ得ておいたほうがよろしいかと思います。

 

            

 

 誰しも自信がなくて不安なときは、自信がなくて不安な感じで、人を疑い、いろんなことを疑うようです。

 

 欲求不満が溜まってくると、人をけなして八つ当たりする人もいます。

 

 自分がしたくて出来ないことを、現にしでかしている奴を、心のうちで殴ってボコボコにしているような人もいる。

 

 誰かを殴ると、その時はともかく、長い目でみて大いに殴り返されます。

 

        

 

 子供のころには氣づいていたことを、ボコボコにされてようやく、あらためて想いだすこともあります。

 

「どんなことでも、自分のこころによりけりなんだ」

 

「自分のこころ感じるままを、この世はうつしだしているんだ」

 

         

 

 わしは何かを疑うということがあまりないようです。少なくともこころの目で見たら、あらゆることがなんでも「この通りなんだなあ」「仕方ないなあ」となります。そうしてもっと心地よい流れを想い描き始める。

 

        

 

 色んなことの流れゆきを、イノチの流れを、永い期間のなかで、じっくり眺めるようにしています。なんでもかんでも「ああ、この通りなんだなあ」と思いつつ、もっと心地のよい流れを生みだしていくのが好きです。

 

            

 

 飛び込んでも大丈夫、飛び込んだほうがイケると思ったら、崖のうえから滝壺に飛び込んだりもします。

 

 イスラエルとトルコでは滝壺に飛び込んで、あやうく死にかけました。

 

 沖縄の海で、フィリピンでは河で、あやうく死にかけました。

 

 死にかけたということでは、インドネシア人のヤクザに拉致されて、アジトで殺されそうになったこともあります。

 

 逆に中米の大都市では、スラムの親分に氣にいられて、街ぐるみで身を守ってもらったこともあります。

 

                

 

 そうやって 身ずからあちこち飛び込んできたからこそ、身についたことも色いろあります。

 

 何かしら氣になったら、身ずからやってみようと思っています。

 

 身ずからは 知りもしないのに、知ったかぶりして、ああだこうだとコメントしてしまうと、後のち恥をかいてしまうようです。

 

            

 

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   第六感 実用的な生活術

 

   

 

 世のなかに、まっとうな新興宗教があるとします。

 

 わしはそうした宗教に入るよりも、みくさのみたからを身につけて、日ごとに みたからをひらき続けるほうが、数億倍マシだと思っております。

 

  素直にそう思うというだけでなく、頭をつかって理知的にクールに考えてみても、やはり、そのように判断できます。

 

               

 

 何らかの宗教にすがったらどうなるか。 

 

 一生かけてようやく、やりたいことを出来たり出来なかったりでしょう。

 

 それじゃあ、遅くて、ややこしいんです。

 

 あれこれ高くついたり、決まり事が面倒だったりもする。

 

 それに宗教といえば、まずは何かを信じたり、信じたつもりになったり、信じようと努力したり、信じたふりをしたり、既成の何かで観念を固定されるので困ります。

 

                

 

 みくさのみたからは、シンプルで、具体的で、実用的です。

 

 なにかを信じなくても、ただ効く。

 

 みくさのみたからをひらいていたら、3ヶ月くらいでだいぶ目標達成できるのではないかと思います。

 

 あとくされもない。やすあがり。

 

 おおっぴらにすることもできるし、こっそりとすることもできる。

 

 身ずからのチカラをひらけるかぎりひらく。

 

 なりたかったとおりの自分になる。

 

 無理なく頑張らずに、ただやる氣が出てきて夢が叶う。

 

 みくさのみたからは、シンプルで筋の通った伝統的方法です。

 

 昔ながらの暮らしの術というのは、

 

 何かしら信じたことにしておく必要がないんです。

 

          

 

 宗教にはみっつのことが必要です。

 

 教祖・教典・戒律。

 

 このみっつを固定観念として信じ込むのが信者。

 

 この前提がないと宗教が生まれない。

 

 そしてこのみっつを信じ込んで守る人たちの教団、

 

 これがないと宗教としては成り立たない。

 

              

 

  みくさのみたからと、いわゆる宗教は、真逆でしょう。

 

 こうしたことは、すでに日ごとに、みたからをひらいて楽しんでいる方は、まったく読む必要のないような当たりまえのこと。こんなことを読んでいるよりはむしろ、今ここで、みたからをひらいて、中枢神経の疲れをサーッと晴らしていただきたいところです。

 

 やっほー、みたからひらきましょー!

 

            

 

           

 

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  第7号 こいつは教祖になりうるか?

 

          

 

 みくさのみたからをひらいていると、

 

 身ずからのチカラがひらいていきます。 

 

 身ずからのチカラをひらいてようやく、

 

 身ずからわくわく夢をかなえられる。

 

            

 

 夢をかなえていくプロセスでは誰しも、

 

 色んな人たちと身ずからチカラを併せる必要に迫られる。

 

              

 

 身ずから色んな人たちとチカラを併せている方は、

 

 どこかに教祖さんなんて要らないでしょう。

 

                

 

 小さな村にはたしかに経験ゆたかな取りまとめ役というか、

 

 シューチョーみたいな人が要るかもしれない。ヲサですね。

 

 わしはシューチョーとかヲサにはならんし、シューキョーとも関わらない。

 

 この先もずっと旅を続けて、ひとところにはとどまることなく、散るときまで少しずつ、バァーチャンアップを続けていくことになりそうです。

 

「しゅわさかじいさん」くらいが程よいところです。

 

  

 

 みくさのみたからは、昔ながら、誰もがしていたことです。

 

 人としていき心地よく暮らしていくうえで、あたりまえの癖です。

 

 今でも農村へ行くと、80歳あまりの方たちが、当たり前に身につけていたりする。九州とか東北へ行くと、温泉でふつうに、80歳くらいのおじいさんたちが、みたからをひらいています。

 

 日本中に残っているだけではない。

 

 世界中のシャマン文化に、ほぼ同じ生活習慣や技術が残っている。

 

 つまりどこにも教祖さんがいない。

 

 特定の起源や発祥地がない。

 

 村のやしろの わき水みたいに、あまりにあたりまえのことだから。

 

         

 

 たとえば、朝ごと心地よくノビをする。

 

 たったこれだけのことを、どこかの先生から教えてもらう必要なんてない。

 

 こんなことを誰かに教わる人がいたとしたら病気です。

 

             

 

 朝ごとに心地よくノビを出来なくなった人たちが今、事実、

 

 ヤミを抱えて、慢性病や 精神病で 病の院に 集まっている。

 

        

 

  朝ごとにムネの心地をたしかめて、ノビをしながら、ゴキゲンな言葉を口にするだけで、どれだけ多くの方が救われるか、わしは身ずからたしかめてきて、知っています。

 

      

 

 こんなあたりまえなことを人に伝えても、バカあつかいされるだけだったりします。

 

 そうなんです。わしには、はっきり自覚があります。わしはいのちの立場で、エロ・バカ・ワルなやつです。わしから、みくさのみたからを伝えられた人みんな、きっとことのことは実感として知っていると思います。次世代の子供たちはみんな、わしは自分の子供たちも含め、いのちの立場で心地よく、ちゃんとしたエロバカワルに育ってもらえたらと思っています。

 

           

 

 こうしたあたりをふまえたうえで、

 

 メディアにぽこぽこ出ている文字上の飯田しじみ・平面上の飯田しめじと、いま息して動いている生身の飯田茂実とでは、だいぶ違いがあります。

 

 生身のほうは日ごとに変わりつづけている。日ごとにすくすく育っている。そうやっていつでも変化している命が、みたからの伝え方・広め方について、日ごと臨機応変に、色いろ工夫を続けているんです。

 

             

 

「皆元のすべを伝えるすべ」は、日に日に、日ごとに、どんどんバーチャンアップし続けている。共に旅した周りの方たちは、口をそろえて、日日のバーチャンアップにびっくりします。

 

 育ち盛りの人を、固定化したり、先生あつかいしたりするのは、宝律により、禁じられております。

 

           

 

 わしなんかは井戸掘りマシーンみたいなものです。

 

 それを知っているから日ごとに性能を磨いているんです。

 

 井戸堀りおじさん、井戸を掘ったらさようなら、あとは地元の方たちが井戸の水さえ汲めたらいい。みたいのが、カッコいいのか、わるいのか、わしは知らん。行くさきざきで、いつでもおいしい水さえ呑めりゃあ後はイノチの立場でどうでもよかったりする。

 

         

 

 みくさのみたからを身につけた方たちみんな「水を作ったのは誰か?」と問うことなく、おいしい水を呑み続けていられます。

 

         

 

 みたからをひらき続けてきた人たちのあいだでは、誰が先に井戸を掘ったとか、誰が先に水を呑んだとか、そうしたことも関係ない。お互いひらたく対等な仲間みたいな感じで、年功序列や上下関係がない。どこの湧き水もそれぞれにうまい。

 

         

 

「みくさのみたからを身につけた人たちにとって、

 

 飯田さんて教祖みたいな立場じゃないの?」

 

 なんて聞かれたら、みたから仲間さんたちは、

 

 ちょっとウケるのではないかしら。

 

「まあ、飯田さん、バカだから」とお互いに

 

ほくそえみながら顔を見合わせている景色が目に浮かびます。

 

         

 

 身近な人たちのあいだでは、すでに飯田茂実=宗教説は、ばかばかしいお笑いのネタになっているようです。

 

 わしなんかは宗教活動とかに関わりあいたくないタチですし、飯田茂実=宗教の教祖みたいに勘違いされるたび、時にはちょっと傷ついたりしていました。

 

 天野こずえさんの『AQUA』『ARIA』を例に出した人もいました。火星のへんてこな人猫が、いたほうがいいのか、いなくてもいいのか、とにかく社長さんに収まっているカンパニー、みたいな感じかな。

 

            

 

 実際に「たまちの湯」という、みくさのみたから・おたのしみおさらい会が世界中で、すでに数百回ひらかれていて、わしが参加したのはそのうちわずかに1回だけです。

 

 みんなで集まってどんな話をしているのか、どんな人が集まっているのか、わしは把握しておりません。

 

 各地で流れが生まれてきたらもう、あとはほったらかしです。

 

 地元の方たちが身ずから、チカラあわせて楽しんでいます。

 

 伝統行事を取り戻すのと似ているようです。

 

            

 

 笑ってばかりもいられない。

 

 飯田茂実=宗教の教祖説について、もしや、と言ってくれる方がおりました。

 

「そういう勘違いされるくらい、みくさのみたからって、インパクト与えてるんじゃないの? 集いで衝撃うけまくった人たち、あっちこっちにたくさんいるでしょ。チラシの写真みても、すでに何これって感じだし、飯田さんのプロフィール読むだけでも、けっこうなインパクトですよ。男の人って、けっこう、過去の業績とか、そういうとこ氣にするみたいだしね、器がちっちゃいうちは」

 

           

 

 わしのプロフィールを書き直すかどうかはともかくとして……

 

 みたからをひらいている方たちにとって、みたからとの出会いは、一生で何度というような衝撃の出会い、衝撃の懐かしさだったかもしれません。

 

 そんなすべをお伝えして廻っているのだから、飯田しじみは、お暇な方たちの話題にものぼってくるのでしょう。わしについて、あることないこと、いろんな話が人づてに伝わってきて面白いです。

 

             

 

 傍目にどう見えるかはともかく、わしは人に何かを教え込んでいるつもりはないです。ただおばあちゃんから受け継いだことを、いろいろ工夫しながら、なるべく受け継いだままに、お伝えしているだけです。

 

 人徳や人格が、特別にハイなわけでもない。

 

             

 

 イノチを張ってチカラを尽くしていると、それだけで、どうしても勘違いされて、憧れられたり、妬まれたり、ややこしい感情を向けられたりします。

 

 これは仕方がないことです。現に本気でチカラを尽くしている本人だけが、このあたりのことをどうしたらいいか、身をもって学んでいくことになるのでしょう。

 

          

 

 身ずからしたいことをしていない方は、ほかの人を持ちあげたり、落としたりしてたいへんです。

 

 どうしてもというのなら、わしのこと、氣まぐれに胴上げしてもかまわないから、ちゃんとキャッチだけしてほしい。わしは空とか飛べないし、地面に落ちると痛いので。

 

           

 

 わしは教祖さんどころか、先生とか、講師とか、マスターとか呼ばれるのもお断りしています。先生と呼ばれるのがいやで、大学の仕事もやめました。

 

 みたからを広めて取り戻すためなら何でもするつもりでした。

 

 裸おどりでも、寒中水泳でも、なんでもします。

 

 だからといって教祖みたいになるのだけはお断りです。

 

              

 

 みくさのみたからをひらいていたら、誰もが身ずから余すところなくチカラをひらいていけます。

 

 他の人にぶらさがったり、もたれかかったりして、せっかく元もとあった身ずからのチカラを削いでしまうのは大損だと思います。

 

 他人にぶらさがって、自分のいのちを抑えちゃうなんて、自分で自分のちんこ切っちまうようなものです。この手の損失系バカはきっと、神さまでさえも救いようがない。

 

          

 

 身ずからひらく。

 

 ときにはチカラを合わせて身ずから。

 

 あらゆる人とチカラをあわせて身ずからのイノチを楽しむ。

 

 この世で、身ずから、いのちのチカラを開き尽くす。

 

 そのための、みたからでござる。

 

          

 

 わしは井戸掘り係みたいなものです。水の湧いていないところに井戸を掘るみたいなこと、大好きです。たまにうっかり砂漠みたいな処で井戸を掘ろうとして笑われます。井戸掘りや水路づくり技術は、日ごとにヴァージョンアップさせるようにしています。

 

               

 

 始めのうちは「あんな奴の堀った井戸の水なんて呑めるかよ!」と言う人がいてもいい。わしは掘るだけ掘って、すぐに立ち去る。いずれ次の世では、誰が掘ったとか関わりなく、口に合うとか合わないとか関わりなく、お子さんたちみんな、おいしい水を呑むようになります。

 

        

 

 もちろん水を呑む人が、わしのように、エロバカワルである必要はない。清く正しく美しくこだわっている人が呑んでもきっと、おいしい水は美味しい。あまりのおいしさに、思わず咲みを洩らしてしまう人もいるでしょう。その咲みが、傍目にはエロく見えたり、バカに見えたり、ワルに見えたりしたとしても、わしの知ったことではないんです。

 

                 

 

           

 

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   小口大八さんと みたからの教典を探せ!

 

              

 

 いくら探してたって、そんなもの、どこにもないよ。

 

 小口大八さんだって、太鼓を本で伝えられるなんて思っていなかった。

 

          

 

 皆元のすべは、文字を読み書きできない女の人たちのあいだで、ずっとずっと世代を超えて伝えられてきたことです。こうしたことは身ずから伝えていくしかない。

 

 

 

 みくさのみたからを伝えてくれた、わしのおばあちゃんは、信濃の國・伊那谷・美篶村で生まれ育った昔話の語り部でした。超人みたいにいつも元氣で、何でもできちゃうおばあちゃんでした。「あんなに元気な女の人は見たことがない」と周りから感心されていました。

 

 六十歳近くになって辞書で猛勉強を始めるまで、漢字はあまり読めない人でした。

 

  

 

 おばあちゃんから、みたからを受け継いだわしは、文学や言語を学んで、プロの作家になり、プロの詩人になりました。

 

 それでもやっぱり、これまでのところ、みくさのみたからを「本」にして人に伝えることはできなかった。この10年ほどのあいだ、何度も、何度も、試しては失敗し、試しては失敗し、何千枚もの原稿を、書いては捨て、書いては捨て、やっぱり本には出来なかった。

 

              

 

 みたからは、理屈をすっ飛ばして、たちまち、たやすく、心地よい。

 

 こうしたことは、頭でわかったつもりになって、言葉でかためてしまったりするともう、おしまいなんです。

 

                

 

 わしもまた、おばあちゃんと同じように、語り部として、相手のまえで、身ずから身をもって伝え始めるしかなかった。

 

 ことたまのチカラをひらいて、身ずからことたまを鳴り響かせながら。

 

              

 

 みくさのみたからの集いの中身は日ごとに変わっていきます。

 

 語る中身は すべてその場で生まれてくる即興です。

 

  そんな即興の語りを、ジャズの録音みたいに、五十回、六十回と、繰り返し聴き返している方たちがいます。お料理しながら、運転しながら、ときには百回あまり、日ごとに繰り返し聴いている方たちがいるんです。

 

 テクノロジーとしては、音録り小箱のほうが書籍よりも新しい。

 

 そうして昔ながらを受け継ぐのには、いろんな芸能なんかと同じで、本を読むよりも、語りを聴き返したほうがマシなのかもしれません。

 

         

 

 来年あたり、語りの文字起こしを元にして

 

『みくさのみたから皆元のすべ〜みたから入口の巻』

 

 という本をつくってみようかと思っています。

 

             

 

 これは具体的で実用的なノウハウ本です。

 

 どう見ても教典なんかには なりようがない。

 

 あくまでも身につけた人たちに向けてのおさらい本、昔の人たちがみんな身につけて日ごとにしていたことを、まずはこんなところから実際に初めてみたら?という目安本です。

 

            

 

 みたから書籍が生まれたときは、くれぐれも輪読会なんてしないでください。

 

 輪読会なんてしないでも、輪になってしたほうがいいことは、ほかにも色いろあるでしょう。

 

 1冊の本を皆で廻し読みしていただくのは大歓迎です。

 

                

 

 著者がぽろっと洩らした意見感想なんかも、

 

「これが正しいんだ!!!」

 

ということになって集団で共有されたらもう、たちまち「思想」や「教義」や「理念」になってしまいます。

 

「思想」や「教義」を集団で共有するなんて、いのちの立場の逆です。

 

 このことに、わしは小学校で氣づきました。

 

 ラジオ体操。運動会の組み体操。

 

 みんながそろってひとつの動きをする風景は、奴隷ロボットの大量生産みたいで気持ちわるかった。固定観念にしたがって、みんなで動きをシンクロさせるなんて、人間だけがすることです。頭で体を操っていると、コリ・しこり・氣づまりが生まれてしまう。いのちの立場で気持ちわるい。

 

        

 

 だからわしは舞台の演出をするときなんかも、いったん決まってしまったカタチやキマリから、出演者たちがなるべく、はみ出ていけるように、いろんな工夫を続けてきました。

 

           

 

 カタチの決まった集団のなかで、なにかしら固定観念にとらわれてカチコーンとなり始めた人は、たいへんです。まずはやたらと概念語を用いるようになってくる。それから、ギャグというか、ジョークというか、くだらん笑いを見捨てるようになって、身ずからもあまり笑わなくなるし、人を笑わせなくなってくる。そうなるともう、首やムネや腰の動きが妙にまっすぐ、ワイパーっぽいというか、ぎこちなくなってくる。

 

 宗教の側から見ても、こういうのは末期症状でしょう。

 

 カタくなにカタチを守っている人たちが、3年、10年、30年と経ていくなかで、カタチにとらわれて形骸化していく様は、見ていてあまりにみじめです。

 

           

 

 概念語(ほとんどが漢語の熟語またはイギリス語)をたっぷり用いるようになった人はちょっと危うい。

 

「思想=教え」みたいなことが頭のなかで統一されて固まってしまってはもう、イノチにとって心地よくなるすべがありません。イノチにとってはどんどん居心地がわるくなってくる。

 

              

 

 みくさのみたからはイノチとひとつながり。日ごとに美味しい故里の味みたいなことです。それぞれに身ずから日ごと楽しんでいきます。

 

 思想なんかが必要だったら、生き心地よいイノチからいくらでも新しく取り出してくればいい。わしはこのこともまた、おばあちゃんから学びました。

 

 思想や理念は頭につめこむものではなく、いつでも新しく、いのちから溢れ出してくることです。

 

 技術や手法もそうです。かたちやルールもそうです。生き心地のよいいのちから、いつでも新しく、溢れ出してくる。今ここで、もっともっと心地よい技術が、手法が、かたちが、ルールが、生き心地よいいのちから、どんどん新たに生まれ出してきます。これがいのちの立場だよ。

 

          

 

 思想もない。教義もない。理念がない。これでいいのだ。

 

 イノチの立場からすると、本に書かれた思想とか理念、固定観念のたぐいは、イノチをムダに苦しめるだけ、むしろ要らないのではないかと思います。

 

 思想がなくても、教義がなくても、理念がなくても、教養がなくても大丈夫。

 

 そんなものは、いつでもその場で、生み出したらいい。

 

 創作郷土料理。どんな國の人が食べてもおいしい料理。

 

 どんな國でどんな暮らしをしている人でも、みくさのみたからを一生楽しくひらいていくことができます。

 

             

 

 みくさのみたからには、おおまかな目安しかない。カタチやキマリがないのです。素晴らしい呼名が末広がりに受け継がれていってくれたら日本人にとっても、他国で身につける人たちにとっても、来し方を知ることが出来てありがたいというだけです。

 

       

 

 何かを頭で永遠に固定化しようとしても、イノチにとっては無駄なだけ。

 

 永遠に残るかどうかはともかく、消えてしまったら取り返しのつかないような、美味しくてイノチによい郷土料理がある。そして郷土料理には欠かせない食材があって、味噌や酒粕や糠床がある。

 

 みくさのみたからについての書籍は、たとえば味噌・糠床を作るためのレシピ本みたいなものになるでしょう。

 

 実用的なノウハウ本です。

 

     

 

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  第九番 みたらし団子に戒律はあるか?

 

 

 

 お団子の食べ方に決まりはありません。

 

      

 

 みくさのみたから、なおさらのこと、

 

 カタチもなければ、キマリもない。

 

          

 

 絶対に笑い飛ばしてはいけない戒律、

 

 集団で守らなくてはいけない絶対的規則、

 

 決して外れてはいけないカタチ・キマリ・序列、

 

         

 

 したくないけど、こうせねば、

 

 やりたくないけど、こうすべき、

 

 したいんだけど、しちゃダメだ、

 

 そんな決まりがあればあるほど、

 

 イノチは窮屈になって苦しむのでは?

 

           

 

 カタチあるものはいつか滅びる、

 

 こんなことは子供の頃から誰だってしっている。

 

 身ずからのイノチのチカラをひらいてイノチを楽しむ、

 

 ただこれだけのことを出来ていない人が、かっこをつけて、かしこいふりして、きれいごといって、カタチやらキマリやらで武装しているだけかもしれません。

 

             

 

 「戒律する宗教は滅びる」

 

というのは今やよく知られてきた言葉です。

 

          

 

 みくしのみたらし団子。

 

 その永遠にして絶対的な味わい方

 

 なんてぇものはどこにもない!

 

        

 

 団子をひとつずつ横からソフトにかじりとるのでもいい。

 

 串をまるごと縦にまっすぐ喉へぶっこむのでもいい。

 

 「みっつでひとつ」ひと串まるごと頬張るのでもいい!

 

              

 

 食べたいのなら人目はさておきそれぞれが

 

 それぞれの味わいたいように味わえばいい!!!

 

            

 

 だってお団子だろ!

 

味わうためのお団子だろ!

 

 作った側も 頂く側も

 

長い目でみてお互いに美味しかったらすべてよし!

 

         

 

         

 

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  十連発 早いものであれから10

 

         

 

 『みくさのみたから』という謎の集団を追い続けて!!!

 

            

 

 いくら追い続けたところで、そんな集団どこにも見当たらないと思います。

 

             

 

 みくさのみたからというのは人の名前ではなくて、

 

 昔ながらの「すべ=生活術」のなまえですから。

 

              

 

「いざとなったらお母さんはね、名前を変えてでも、お前たちと異国で生き延びていきますよ」ってロシア革命のとき、貴族の方たちが言っていたじゃないですか。ほんとうにいざというときになったらね。名前を変えてでもね。イノチは何より大事だからね。

 

             

 

「えええ? みくさのみたからって集団の名前じゃなかったの?」

 

「だって写真みると、たくさんの人が集まっているし!」

 

「人がたくさん集まってひとつになってるこの感じ、

 

 何が怖いって、みんなこれが怖いんじゃないの?」

 

「人っていうのはもともとみんな、ひとりぼっちな存在だろう?

 

 大勢で集まって何かするなんて、うざいよ、汚いよ!」

 

「しかもみんな、変な顔して笑っていたりするし!」

 

「だめじゃないの人間として、無防備にこんな顔さらしちゃ!」

 

「あとこれ、人のカラダに触れたりしてる」

 

「人が人に触れてはだめではないか、ハラスメント」

 

「こんなの親交州境だよ!」

 

       

 

 それぞれの培ってきた人生観・世界観はさておいて、みたからの集い写真にうつっている方がたは、あちこちからみたからの情報を得て、バラバラに集ってきた人たちです。

 

 バラバラに集まってきて、バラバラにお家へ帰っていきます。

 

 みんなそれぞれ、骨盤のカタチも、運動傾向も、感受特性も、家庭環境も違っている人たちです。世界観とか自分観とかいった考え方・趣味・主張がバラバラなのはあたりまえでしょう。

 

           

 

 みくさのみたからという集団はどこにもないので、集団にぶらさがろうとか、集団のなかでぶらさげようとか、そうしたことを企む人があらわれたとしても、とりつくしまがないようです。

 

            

 

 わしが人様に集まってもらうのはなぜか。

 

 わしが1人1人のところへ出向くよりも、ひとところへ集まってもらったほうが伝わり方も速いからです。

 

 はじめのうちは、ひとりひとりに、直にお伝えしておりました。そのうち、少しずつ、氣づいてきました。三十人の方にひとりずつ三十回かけてお伝えするより、三十人とひと時を分かち合うほうが、効き目も速いし、伝わり方も速い。

 

 なるべく多くの方へ、ひと時に伝えられたらと思って、集いを支度するようになりました。

 

             

 

 どうせなら笑いながら身につけてもらおうと思って、日ごとにお笑いのネタをチェックしては、こまめにネタを蓄えていた時もありました。

 

 諏訪ん衆って祭りがないときは、こまめで まじめなんですね。

 

            

 

 みくさのみたからの集いというのは、かつてのハヤリでいうと、ダンス・ワークショップとか、健身術ワークショップみたいなことです。

 

 わしは演出家・芸人として舞台で働いてきました。たくさんのワークチョップと、ワークキックで、悪いダンサーをやっつけていました、じゃなくて、いいダンサーさんたちを育てていました。

 

    

 

 そうしてバレエ、インド舞踊、タンゴ、琉球舞踊など、

 

 今はもう引退してくすぶっている、かつての有名ダンサーたちを

 

              

 

 た ぶらかす

 

 ま るめこむ

 

 ち りがみくばる

 

               

 

 など あの手この手で 場末のスタジオへ集めてきては

 

 若いダンサーたちと競演させて、

 

 たくさんの素晴らしい公演活動を行ってきましたの。

 

(わしの話の3パーセントは、事実に基づくバレバレな嘘です)

 

         

 

 たんなる技術教室や、振り付け教室では、とてもとてもワークショップとは呼べません。

 

 わしがワークチョップを繰り出しながら見ていたのは、演劇の小枝や ダンスの小技ではなく、来られた方たちのイノチでした。集った方たち皆で、これからチカラを合わせて生みだしていく、未来の出来事を見ていました。もっと心地よく喜ばしく楽しく面白い、これからの流れを見ていました。

 

 飯田さん、世界あちこちで、それはそれはもう、素晴らしいダンス・ワークショップをして廻っていたんですの。

 

 かつて日本政府から予算をもらってワークショップ研究をしていた方たちがいました。この方たちから飯田は「ワークショップ・マスター」と呼ばれていました。マジですよ。

 

   

 

 ワークショップなんていうと、からっぽなイギリス語の記号になってしまって恥ずかしいので、3.11のあとでは昔ながらに「集い」と呼んでいます。

 

                    

 

 みくさのみたからの集いは、パフォーミング・アートの研究者からすると、パフォーミング・アートの根源的かつ理想的な在り方なんだそうです。先進的な舞台芸術の流れのなかで、特筆すべきことなんだそうです。

 

 今年の7月にはカナダの学会で、みたからの集いが紹介されています。

 

3.11のあとに日本で生まれたパフォーミング・アート」として。

 

 この研究発表をされた方は、アメリカの大学で学部長さんをして来られた方で、アジアの舞台芸術研究を代表する方です。日本の著名な舞台評論家たちにとっても、お姉さんみたいな女性で、わしも個人的にお世話になったことがあります。南の島に住んで、身ずからダンスを楽しんでいる氣さくな方でした。

 

                    

 

 日本全国を旅するまえ、わしは海外をあちこち旅して、みたからを伝えておりました。

 

 この國について、海の彼方から見るとようやく見えてくることも多いんです。内側をあちこち廻っているだけでは足りない。

 

                 

 

 この5年でみくさのみたからは、アジア諸国・ヨーロッパ諸国・アフリカ・中東・南米・中米・北米などに広まりました。どこでも地元で だいぶ重宝されているみたいです。昨年まで、みたからは、日本よりもトルコなんかのほうがずっと盛んでした

 

            

 

 海外のみたから経験者から英語で「みたからの入口」を伝えられたという日本人もいました。レイキや舞踏やマクロビが逆輸入されている現状もさみしいことながら、みくさのみたからほどの宝が、これほどの皆元のすべが、逆輸入によって日本に知れわたるのでは、あまりに悔しい。

 

               

 

 2013年の春、わしはひらめきを受けました。

 

               

 

 これから2年半のあいだ、この國をめぐって、みたからを伝えなさい。

 

 そうしたらこの國で3000人が、みたからをひらくようになる。

 

 おまえがずっと探してきた同志=伝え手見習いさんが

 

 まずは33人、そのなかにあらわれてくることだろう。

 

 さらに2020年まで、7年間のうちに、

 

 みたからを伝えられる日本人は333人育っている。

 

 おまえはこの333人と力を合わせて、

 

 みたからを日本から世界中へ一気に広げていくことになる。

 

 それまでゆっくりと仕度を楽しみなさい。

 

            

 

 なるほど、わしひとりではもう、海外からのお誘い・お招きに応えられなくなっておりました。まずは日本の人たちに身につけて頂いて、その方たちに、どんどん海外で伝えてもらうほうが流れとして心地よい。

 

             

 

 朝ごと日ごとに暮しのなかでみたからをひらき続け、

 

 色んな人と力あわせて地元でたまちの湯を沸かし、

 

 日本と世界あちこちの、みたから仲間と交遊し、

 

 ちからをひらいて色んな仕事を愉しめるようになり、

 

 いのちの立場でエロ・バカ・ワルも充分に経て、

 

 みたからの何を語り継いだらいいのか心得ている、

 

 そんな人たちがこれから日本で333人現れてきます。

 

             

 

 後になったらそういうめでたいことになっているにしても、何もしないでいたら、何も起こらない。とりあえず、身近でみたからをひらいている仲間はゼロ、というところから、愉しめるかぎりで出発しました。色いろなことのやり方はわからないまま、身ずから手さぐりで集いを初めることにしたら、チカラを合わせてくれる方たちが次つぎと現れました。

 

 みたからの噂は、たちまち口込みで広がって、行く先ざきで、始めてみたからを体験する人たちが会場に集ってくれるようになりました。

 

               

 

 このさき日本の伝統的な心身術は、この世界を心地よいほうへ変えていく重要なキーになっていきます。そのなかでも、みくさのみたからは、ついに本命登場! 横綱登場!みたいな皆元の術です。

 

 このことを知ってしまってもう後には引けず、わしはこの2年半、出来るかぎりのことをしてきました。すべてのチカラを尽くしました。

 

 これから先はもう放っておいても、みくさのみたからが世界中に広がっていく、そのような下地はすでに出来てきたように思います。

 

    

 

 チカラのかぎりを尽くしたことのない人たちは、チカラのかぎりを尽くしてきた人に、憧れたり、寄りかかったりします。ときには妬んだり、疑ぐったり、複雑にこじれたりもするようです。

 

 ぐじ・どろ・イラ・ムカは、誰のためにもならない。

 

         

 

 みくさのみたからは、出来るかぎり・チカラのかぎり・楽しめるかぎりを、どんどん広げていくすべでもあります。この世の誰もがみな、どうしてもする必要があって、しかもしたくてたまらないことを、身ずからチカラのかぎりしていけばいいのです。

 

 人にぶらさがったり、人のことを恨んだりしてきた方は、みたからをひらいているうちに、ぐじ・どろ・イラ・ムカしている余暇も余力もなくなっていきます。チカラのかぎり、想って、声にして、汗をかいて、晴れやかにすがすがしくなっていきます。

 

             

 

 チカラを尽くしていない方は、ぜひみくさのみたからを身につけて、したかった通りにチカラを尽くせるようになりましょう。

 

 壁に守られた小さな水たまりのなかで、半径数人の頭を抱えて、ぼやいている場合ではないのです。

 

         

 

 祭りの支度をするときは、みんなチカラを併せます。

 

 何か固まったものを頼るのでなく、いのちに任せて、身ずから。

 

 ひとりぼっちで頑張るのではなくて、いのちひとつに、チカラ併せて。

 

 こうした昔ながらの祭りづくりを、この國の若い人たちが、まさにこれから取り戻していくだろうとわしは思っています。

 

             

 

 集いに来られた方たちには、まず「お祭り健康ダンス」を身につけて頂くようにしています。みたからの入口と呼ばれています。おふとんのなかで朝ごと日ごと、それぞれのお好きなように、ご機嫌なことを口にしながら、たっぷりと余すところなくノビをする。昔ながらの生き心地よい習慣です。

 

                 

 

 わしはこれからも氣のあう仲間たちを探しながら、身ずから仲間たちとチカラを併せて、日ごとのみたからをひらいて楽しんでいきます。

 

 集団なんてつくるつもりはないです。

 

 わしが頑張ってカリスマ・パワー全開にして、大きな集団を作ったとしても、そんな集団はわしが他界したとたんにバラバラに崩れて消えていくことでしょう。固定した集団を作って維持するなんて、わしには荷が重いしチカラの無駄です。

 

 わしが消えても、みたからは、後世に伝えられていく。

 

 そこまでは何とかやってきた。

 

             

 

 みんなそれぞれ、身ずからチカラを合わせて、ばらばらにそろって、楽しく祭りの支度をする。すこやかで美味しいものを食べて、心地よいことをする。

 

 こうした集いが、たまちの湯が、これからさき世界中で、続いていくのではと思います。

 

 こうした集いをするにあたって、みくさのみたからは効き目たっぷり皆元のすべです。色んな祭りを楽しむにあたって、欠かせません。

 

               

 

 ムダなまもりに入っていても、つまらないよ。

 

 お互いに生き心地よく活かしあって、楽しく面白おかしく暮らしていく、

 

 そんな暮らしをしてもいいかな、という方は、どうかサーッと、みたからのひらき方を身につけて、昔ながら晴れやかな生き心地を楽しんで頂きたいと思います。

 

               

 

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    あとガキのまえガキ

 

               

 

 2015年7月18日(土)集いのない日に、京都の自宅で大きなパソコンに向かって、まことのりつつ、ちのみちとおしながら、ここまで半日で一気に書きました。

 

 原稿用紙にして100枚くらいでしょうか。

 

 小冊子くらいの長さになってしまいました。

 

            

 

 これまでになく重大にして永遠的なトピック=宗教を扱っておりますので、あとで軽く手直しをして、ブログに載せようかと思います。

 

(と書いたまま、ひとり近藤良成くんに読んでもらっただけで、1年半ほど、ほったらかしておりました。)

 

               

 

 こんなに長くてとりとめのない文を、わざわざここまで読んでくださって、ありがとうございました。

 

           

 

 みたいな挨拶で終わりにするかといえば、そうでもない。

 

『みくしのみたらし〜団子の食べ方』は、まだまだ続きます。

 

           

 

 どうしてこんな文を書いたかといえば、googleで「みくさのみたから」を検索してみたからです。

 

「みくさのみたから 宗教」というキーワードが出てきました。

 

 みくさのみたからについて、ネットで情報を得ようとする人はまず、宗教という言葉を目にすることになってしまいます。

 

 ところが検索でヒットした頁をあれこれ読んでみても

 

「みたからと宗教の関係は?」

 

「みたからは宗教である」

 

「みたからは宗教と関わりがある」

 

 といった情報は得られません。

 

             

 

「もしや、みたからは宗教なのでは?」と何とはなしに不安や疑念をもって、キーワードを打ち込んだ方がこれまで、何人かいたのでしょう。

 

 その後、みたからについて知ろうとした方が、ネット検索を続けているうちに、なんとなく氣になるキーワード「宗教」が表示されるようになってきた。そしてついついクリックする人が多くなってしまった、というだけのことなのでしょう。

 

 力つくして、みたからを伝えてきた者として、いろいろ感じるところがありました。

 

   

 

 かつての我が身をかえりみて、思うところもありました。

 

 たしかにわしには宗教にまつわる体験があります。

 

 思春期の頃、イエスの福音書に感動して、ほとんど暗唱するまで読みました。このまま神学校へ入って牧師さんになろうかと思ったこともあります。

 

 福音書を読み始めたきっかけは、高校への通学中、一面雪景色になっている諏訪の街を眺めているとき、神の声みたいな声が聞こえたからです。

 

 「神は存在する。わたしは神だ。神の願いを知りなさい」と、いきなり頭のなかで声が語りかけてきたのです。精神医学でいうところの、いわゆる幻聴ですね。

 

 それでは神は何を願っているのか、この世には聖書というものがあることにハッと氣づいて、学校の授業をサボり、聖書を手に入れました。

 

 教会へも顔を出すようになりました。素直なところ退屈でした。

 

 礼拝には出ないまま、牧師館に住まわせてもらっていたこともあります。

 

           

 

 禅寺に住まわせてもらって寺男をしていたこともあります。

 

 京都の南禅寺・金地院です。お寺のなかには国宝や重文がいくつもありました。

 

 そうしてある朝、素晴らしい瞬間がやってきた。禅師とともに、早朝の作務を続けているうちに、ある朝いきなりやってきた。

 

 すべてが晴れやかに澄みきって、すべての迷いが消えていた。

 

 この時の感覚はその後ずっと消えたことがないのです。

 

 いつでもどこでも、このときの心地を想いだせば、スーッと晴れ渡った気持ちになれる。

 

 この秋の日の朝、師匠がわしの顔を見て「よし」というふうにうなづいて、その日から少しずつ、色んなことを教えてくれました。

 

    

 

 禅師から、座禅をせよと薦められたことはいちどもない。

 

 お寺ではこのうえなく幸せに暮らしました。

 

 このままお坊さんになろうかなと本気で思うようになったところで、師匠に見抜かれて呼びだされ「きみは芸術家になりなさい。お坊さんになってはいかん」と言われました。

 

 そのまま勢い、コンテンポラリー・ダンスをしたり、映画監督として映画撮影をしたり、女優さんをお部屋に連れ込んだり、そうした活動にお寺を使わせてもらうようになり、禅師はなんだか嬉しそうでした。たまに苦笑いみたいな顔をしていました。

 

         

 

 小さい頃はいわゆる霊感の強い「神高い子」だったようです。色んな神さまと交信して、お話をしておりました。それからちゃちな超能力といいますか、スプーン曲げくらいは普通に出来る子でした。虚弱児童にはよくあることでしょう。大人になるまで生きられないと医者に断言されちゃうくらいの超虚弱児だったのだから。

 

 6歳のときに交通事故にあって臨死体験をしています。このときに垣間みたヴィジョンは今もはっきりと見えています。

 

      

 

 大学をやめて、関東へ出て、路上で踊って稼ぐダンサーになった頃、いわゆる内面的な必要に迫られて、わしは猛烈に本を読むようになりました。大乗仏教・キリスト教神学・ムスリム神学・神秘哲学・宗教学などを学びました。こうした激しい知的好奇心は、今にして思えば、ひとり者の余力といいますか、思春期のムダな禁欲生活から来ていたのかもしれません。

 

 京都へ戻ってからは、毎朝の滝行と過労でカラダを損ねました。結核になって死にかけて入院して、医者からはダンスを禁じられた。

 

 健康ない。仕事ない。お金ない。恋人去る。

 

 いやでもイノチについて想いめぐらさずにはいられないでしょう。

 

 退院後は、ミュージシャンとして活動を始めながら、あらためて個人的に、みくさのみたからと出会いなおしております。 

 

       

 

 学生時代も、詩人時代も、ミュージシャン時代も、芸人時代も、演出家時代も、みくさのみたから伝え手見習いになってからも、わしはいつでも、なんだか人に話すとフィクションみたいな、奇想天外な旅暮らしをしてきました。

 

 これもお役目みたいなことで、仕方ないのかなと思います。

 

 みくさのみたからほどに、色んな人の生き心地を変えてしまうすべが、他に見当たらないのだから仕方ないのです。

 

            

 

「おまえ何人分生きてるんだ」「本気でいろいろやりすぎ」みたいなことは、大学時代からよく言われてきました。「台風」とか「起爆剤」とか「人間アートセンター」とか呼ばれたりして、時にはもう、はちゃめちゃでしたよ。

 

               

 

 こんなにチカラを尽くして、激しく変化しながら生きている人を、わしは同世代の人のなかに見たことがない。

 

 それから、こんなにも余すところなく身ずからを生きている人を、わしはほかに見たことがない。ワルなのか、学者肌なのか、バカなのか、天才なのか、エロなのか、修行僧なのか、あまりに振れ幅が大きい。聖俗どちらも、清濁どちらも、わしは身ぐるみ生きてきました。

 

 それはもう、文学者から「宗教的情熱」といわれても文句いえないくらい、身ずから笑ってしまうくらいでした。

 

 今、宗教学者の方がやってきて、きみのこれまでの行動様態そのものが宗教社会学の研究にうってつけだね、とか言われたら、それも仕方ないかなと思います。実際にそのような視点から、心理学研究の素材となったこともあります。「通常は統合し難い情報を膨大に統合している稀な例」として。

 

            

 

 30歳頃には親友が毎晩酔っぱらって部屋へやってきては「飯田くん、宗教作ってよ、宗教の教祖になってよ。僕が最初の信者になるからさ」とか本気な目をして言っていました。「本当は自分が教祖になれるって知ってるんだろ。宗教つくって僕みたいなやつを救ってくれよ」云々。

 

 そのころから10年あまり、宗教っぽい感じが出ないよう、わしははっきり意識して、軽くて、わかりやすくて、ポップな人を演じるようになっていきました。ポップ・ミュージシャンとして、俳優として、海外で人気者になりました。いろんな現代美術展に招待されるようになって、あちこちのビエンナーレ・トリエンナーレで目玉パフォーマーとして扱われたりしていました。目に見えないものは一切あつかわないという態度を押し通していました。

 

 なにごとも過剰なくらいにやっていると、反動が出てきます。

 

 この2月、大切な友達を失ってからのこと、東北で、ハワイで、沖縄の島々で、私の身に、不思議なことが相次いで起こりました。いわゆる超常現象の数かずです。

 

 そうした方面での出会いが重なって、本気でスピリチュアリズムの文献を読みあさったりしておりました。もちろんニュートラルな立場は保ちつつ。

 

      

 

 こうして色いろ想い起こしてみれば、みくさのみたからにかぎらず、伝え手のわしが、どこか宗教っぽい雰囲気を醸し出していたとしても、不思議ではないです。

 

 宗教とは何か知らないまま、飯田しめじについてもよく知らないまま、なんとなく漠然と、みくさのみたからって、飯田茂実って……宗教と何か関係ある?……みたいな何かを感じてしまう人たちがいる。これってやむをえないことなのかもしれません。

 

            

 

 だってわしが、なんていうか、おまえそれ宗教かよっていくらい、色いろと過剰で、本氣でなかったとしたら、みたからにまつわる、色んなことが、無茶だったかもしれないでしょ!

 

 神代から伝わってきた、皆元のすべを、今の世の人びとのあいだに取り戻して、次の世に継いでゆくなんてことしてたんだから!!!

 

         

 

 みたからを受け継いだわしの人格はともかく、受け継いだタイミングと、受け継いだ中身は、まさにドンピシャだったのではないかと思います。

 

           

 

 せめてこのくらいの下積みなかったら、無茶ですよ!

 

 せめてこのくらいの情熱なかったら、無理でしたよ!

 

 みくさのみたから、わしの手に余っちゃいましたよ!

 

 万人向けの、天然自然な、すべすべのすべでしょ!

 

 するしかないから復興!うっかり先駆者!ついつい開拓者!

 

 みたいになる人は、どこか過剰にはみ出していても仕方ない。

 

         

 

 みたからを伝え始めてすぐに、色んな人たちから慕われるようになり、色んな人たちから怖がられ・疎まれるようになりました。こっそりすごく氣にされたりもします。先ざきの広がりを思えば、このくらいのやつが、こんなふうに動きだして、ようやくそこそこ、程よく時代と釣り合っているんじゃないか。

 

 素直なところ、そんなふうにも思っています。

 

            

 

 宗教に「さようなら」してから今年で20周年くらい。

 

 過去の色んな時代を、チカラ尽くして駈け抜けた信仰者たちのことは、相変わらず氣になったまま、

 

 わしはどんな教祖も、どんな戒律も、どんな聖典も、まったく信じておりません。

 

 これまでに書いたように、教祖みたいな先生っぽいものに成るつもりもない。ルールやシステムを作るつもりもない。固定された過去のああだこうだに縛られるのは御免です。

 

 いのちの立場で生き心地よく、次つぎと新しい目安を生み出しながら、上書き保存した最新の今を暮らしていきます。

 

           

 

 わしはスピリチュアリズムとか、死後の世界とか、前世だとか、異星人とかUFOとか、超能力とか、守護霊だとか、宇宙や地球の法則だとか、そうした方面について、ほとんど話を致しません。といいますか、ごくわずかな人としか、そうした話をしていません。タイミングでもないのに、こうしたことを、いちいち話している暇なんてないだけなのかもしれません。

 

             

 

 みくさのみたからを日ごとにひらいて、イノチの立場をあますところなく開いていくうちに、こうしたことが、身ずから当たり前の現実になってくる方もおられるでしょう。 

 

 目には見えないことに基づいて、主観的な、曖昧な妄想を抱くのは、ほどほどにしておきましょう。何がどのように見えるかは、こころの通り。わしもこうして、こころに映ったことを、こころに映ったようにしか書けません。 

 

 ひとつの答えも、ひとつの結論も、要らないと思っています。

 

      

 

 わしがいつでも愉しんでいるのは、イノチのチカラです。

 

 信じているとかいうよりは、ただ任せきって愉しんでいる。

 

 いつも流れうつろって、同じところには留まれないイノチ。

 

 かぎりなくどこまでもチカラをひらいていけるこの不思議なイノチ。

 

 

 

 伊那谷のおばあちゃんから、わしが受け継いだ様々なことのうち、どうしてもこの、いのちを味わい愉しむすべ、いのちのちからをひらくすべ、みくさのみたからだけは、この世に残して伝え広めておく必要がありました。

 

          

 

 祭りの太鼓や宴とともに、イノチの立場が、この日本からどんどん姿を消してしまったこの100年。

 

 ときには日ごとに倒れては起きあがり、倒れてはまた起きあがり、わしが皆元のすべを伝える旅を続けてきたのは、今だったらまだ、日本の若い人たちが、皆元を取り戻して、次に継いでいってくれるからです。

 

 30年あとだったら、どうなっていたことか。

 

           

 

 いろいろと悲しい話も聞きました。

 

 赤ちゃんを産むときに、みっともないイケ声を出して、みっともないイケ顔になるのは、気持ち悪くていやだというお母さん・お父さんが増えていたそうです。 

 

 赤ちゃんが泣くとうるさいから、夜は睡眠薬を飲ませて眠らせる親たちが増えていたそうです。

 

 人が大勢で一緒に何かを楽しそうにやっているなんて、気持ち悪いという人たちが増えていたそうです。

 

 伸びをするときのイケ顔・イケ声が気持ちわるいとか、かっこわるいとか、いのちにとっては、おそろしいことを公言する先生や指導者も増えていたそうです。

 

                

 

 今から30年くらいまえには、昔ながらの歩き方を失って、どう歩いていいのかぎくしゃくしている人たちが多かった。

 

 今ではだいぶ、若い人たちが、西洋人みたいな身のこなしになってきました。からだを頭で軍隊式にコントロールする、かっこのつけかたを憶えてきたともいえるでしょう。

 

 ほとんどの若い人たちは、みぞおちにも、肩にも、首にも氣づまりが溜まっていた。胸が飢え渇いて、こわばっていた。歳がいくほどに、あちこち緊張させらまま、氣づまりな人が増えていた。

 

 世のヤミ、イノチのヤミが広がって、自殺者は日本国内で年間推定、10万人あまり。

 

                 

 

 こうしたことはみんな、過去のまぼろしなのかもしれない。

 

 こうしたことを、まだ、まぼろしだはと思えない人は、例えばわしみたいな者とチカラを合わせて、どうにかして参りましょう。

 

 すぐに踊りだすバカが相手でもよろしければ、ぜひとも!

 

 きっとどうにかなります。

 

 誰しもイノチであるかぎり、イノチの立場で、もっと心地よくなれる。

 

    

 

 何があろうと、この世のなかは長い目でみてお互いに生き心地よくなっていきます。わしは生き心地よい世のなかを想きつつ、これからも、あらゆる手を用いて、あらゆる工夫をしながら、みくさのみたからをお薦めして廻り、日ごとの癖として取り戻してもらって、次の世へ残して参ります。

 

                 

 

 みくしのみたらしを図案化してくれる方、

 

 みくしゃのみちゃから日めくりカレンダーに協力してくれる方、

 

 絵心のあるアマチュア漫画家の方、募集中です。

 

             

 

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     あとガキのらくガキ

 

            

 

 終わりに どうでもよいようなお話をひとつ。

 

 わしは手打ち蕎麦が大好きです。

 

 それからドイツ系文学も大好きでした。

 

            

 

 『そば打ちの哲学』という本があります。

 

 行きつけのお蕎麦屋さんで、本棚から、何気なく手にとって、何気なく頁をひらくなり、その素晴らしい文体にびっくりして思わず読みふけってしまいました。出てきた十割蕎麦が、五秒ぶんくらい伸びました。ぼろぼろに読み込まれて、頁がはがれたりしている本でした。

 

 蕎麦打ち職人さんたちのあいだでは名高い本で、一生に一冊座右の書として、繰り返し大事に読んだりしているお蕎麦屋さんもいる、そうしたことを後になって知りました。

 

 東北学院大でカント哲学を講義していた石原文康という方が著者。蕎麦という食べ物が大好きでたまらないまま、本業のドイツ思想を研究しているうちに、そのふたつが著者のうちで、ぴったりしっくり見事に結びついてしまったのでしょう。蕎麦好きの読書好きにとっては、笑えて泣けて感動のある、素晴らしい本です。

 

           

 

 蕎麦を打ち、蕎麦を食べる快楽から、いつでも新たに、かぎりなく、学びが、氣づきが、覚悟が、感動が、生まれてきている。

 

 日本ならではの暮らしのなかで育てられた物事の味わい方と、西洋の思考方法が、みごとに解け合ってひとつになっている。

 

 九鬼周造の名著『「いき」の構造』を読んだときとはまた別の味わいで、思わずのめりこんでしまいました。

 

   

 

 わしもまた

 

 みくさのみたからを日ごとにひらいてきた者として、

 

 あちこち踊り歩いてきた奴として、

 

 みくさのみたからを伝える旅をし続けてきた人として、

 

 そして世界中の文学を読みあさってきた文学マニアとして、

 

 いつの日か、脚腰が思うように動かへんようになったら

 

 もう遠慮は要らない、すべてカミングアウトしまくって、

 

 エッセイ本を色いろ書いてみようかなと思っています。

 

           

 

『いのちの立場』

 

『新しい自然療法』

 

『おばあちゃんから受け継いだこと』

 

『カリブ海の小さな島でシャマンになる』

 

『世界の無形文化財100

 

『みくさのみたから出会いの旅』

 

『わしら諏訪ん衆の生きるすべ(すべて國言葉で)』

 

『ダンス・ミュージック珍紀行』

 

『道祖神と七福神』

 

『アフリカン・ダンス・チャンピオン』

 

『今にのこる神代の暮らし』

 

『みくさのみたから・よもやま話』

 

『みくさのみたから・旅の道連れ』

 

『世界まことのりと大全』

 

『みたから整体法』

 

『みたからヨガ』

 

『みたから気巧法』

 

『みくさのみたから365日』

 

『太田雄蔵・囲碁に学ぶ世界観』

 

『天職と天才を楽しんで暮らす本』

 

『釣る者たちと釣られる者たち』

 

『神代の暮らし/森の生活』

 

『しゅわさかじいさん放浪記』

 

『図説・日本の木挽文化と木彫文化』

 

『エロ・バカ・ワル列伝』

 

『凧づくりの最前列』

 

『いのちの文化史』

 

『恋花Ⅰ〜Ⅲ』       

 

『全国パワースポット食養生の旅』

 

『快美悦楽 文化大全 全三巻』

 

『源泉掛け流し美男美女混浴の秘湯vs

 

 自然栽培米による山廃無濾過生原酒の純米大吟醸』

 

  

 

 タイトルみんな今おもいついたんかい!?

 

 はーい。ばーかでーす。

 

       

 

 いくらでも出てきてキリがないので

 

 また30年ほど後をお楽しみにー。

 

 あの世に企画をもっていくのもまた一興。